2018/8/15
今日は終戦記念日。
私の、祖父と父の話を少しします。
私の祖父は、とても頭が良かった人らしく
満州がまだ日本だった頃、日本全国で、試験をして各県から1位の人を
留学させるというのに、島根の2位で受かったのです。
1位の人が行けなくなり、繰り上げ当選というラッキーさ。
そのまま大陸へ渡り、結婚して向こうで銀行の支店長をしていたそうです。
結婚して、一男三女を授かったものの、一番下の子が1,2歳の時
奥さんを日本脳炎で亡くしてしまいました。
小さい子を抱えた祖父は、顔が前妻によく似た後妻さんをもらいました。
それが、私の知ってるおばあちゃんです。
祖父は、岩石巌のような、明治男のスパルタじじいでしたが
祖母は、ものすごく優しい「森光子」似の人でした。
私は、内孫だったので、祖母が後妻さんというのを、
亡くなる寸前まで知りませんでした。
父は、朝鮮(韓国)中洲という所の、銀行の官舎に住んでいたらしいです。
とても豪華な、官舎だったらしいです。
父の母、私の本当の祖母は、朝鮮(戦時中の言い方で書かせてください)で
ワーゲンの日本代理店をしていたらしく、実家はとても裕福だったらしいです。
実家が、官舎の近くだったらしくよく遊びに行ってたようです。
子供の頃の話を聞くと、その実家で、戦時中なのにとても贅沢なものを食べさせてもらっていたようでした。
唯一の男の子で、可愛がられたのでしょうね。おじいちゃんや、おばあちゃんに。
父が、お母さんを亡くしたのは6歳の時。
終戦を迎えたのは、16歳の時でした。
終戦のその日、親しくしていた韓国人の人が、
「早く逃げないと襲われる」と知らせてくれて
急いで、一家で荷物をまとめて引き上げ船に乗ったらしいです。
後で聞いたら、官舎は、父らが出た次の日に、焼き討ちにあったらしいです。
NHKの中国残留孤児の話「大地の子」を見た時、
「一歩間違えば、うちの兄妹も、ああなってたなぁ」
と、感慨深く見ていました。
父は、終戦が16歳だったので、もう少しで戦争に行く所だったのですが
ぎりぎり助かりました。
「当時、お国のために死ぬのに抵抗は、全くなかった」
と言っていました。教育って本当に怖い。
朝鮮での財産は全て没収され、一文無しで日本に帰ってきて
戦後、引き上げてきて、貧乏のどん底だったみたいです。
でも、日本全国みんなそうだったでしょうね。
「おかずはなくても、お米さえあれば生きていける」と、
お勤めしながらお米を作っていました。
この写真は、いつのかわかりませんが、
働き始めて市役所の役人として出張で来たものだと思います。
原爆ドームの前で撮った1枚に、広島の当時の現状が写っています。
戦争のない世界が、いかに大切でありがたいかを
話してくれる人も、少なくなってしまいました。
もっと聞いておけばよかったと、今になって思うのですが
一緒に考え、共感できるようになるには、
自分もある程度大人にならないと無理ですもんね。
今なら、分かることはたくさんあるのですが
「戦争のない時代に生まれて幸せだ」ということは、実感できます。
そなん父も、もう亡くなって14年も経ちます。
祖父母なんて、45年にもなります。もう声も忘れてしまいました。
三人とも、生まれ変わってるかな・・・・・。
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コメント
終戦記念日らしい内容ですね
貴重なお写真がたくさんで是非残してください
無事帰国できたことはきっと異国の地でも受け入れてくれた
人柄の良さのせいでしょう
日本人がしてきたことは韓国の人たちからすればあまり助けてやろうとは思えなかったでしょうし何が人を助けるのかわかりませんね
「大地の子」のような人生もまた辛いです
お勉強ができた血筋はママさんが受け継いでいますね
興味をもち考える今のママさんに役立つものばかり
自慢の家族ですね
今日は迷わずお帰りになっているでしょうか
★ゴルママさん
父が、まだ元気な頃「助けてくれた、あの人に会ってお礼が言いたい。」
と、言っていました。
結局のその願いは叶いませんでしたけどね。
還暦の時、韓国旅行をプレゼントしました。
オリジナルツアーを組んで、通訳の人も同行してもらいました。
でも、あの動乱で、お家はもちろん無くなっていて
地形もかなり変わっていたと言ってました。
ただ1つ残っていたのは、玄関先の階段だったと、当時言っていました。
祖父の、頭の良さの血は、全く流れてこなかったみたいです。ふふふふ。
物凄く、怖い人だったので
あちらの世界で、父はまた怒られていると思います。
久しぶりに、こちらの世界にみんなで帰ってきて
今日は、送り火で、帰っていったでしょうね。
私は、お盆の「線香」の香りが、大好きです。